オペラグラス越しのシリウス

焼き焦がされたいオタク

様々な感情を抱くオタク

先日、しばしば拝見しているブログに「推しを見たあとにめちゃくちゃへこんでしまう」という記事が上がっていた。

 

わかる(海を背景に微笑む渡哲也さん)

 

私も、応援している俳優さんをみたあとは気持ちが沈む。正確には、興奮と鬱屈と感動と絶望のサラダボウルと化す。

私の場合、理由は明白。

「応援している俳優さんの輝きにあてられるから」だ。

 

応援している俳優さんの輝きを塩にたとえよう。

公演やイベントを楽しみにしていた私にとって、応援している俳優さんの輝きはお清めの塩だ。

神聖かつ「また観に行こう」と引き寄せられるものであり、心の拠りどころでもある。

一方、劣等感と死にたさでジメジメしているナメクジみたいな私にとって、応援している俳優さんの輝きは凶器の塩だ。

私の中の少ない希望を吸収する形で、ナメクジ(私)を干からびさせていく。

(上と揃えて塩を主語にするためとはいえ、私が勝手に干からびているくせに、「させていく」なんて書いてごめんなさい)

 

椅子に座っている間、私は観客の私でしかない。

しかし「本日は・・・」のアナウンスが流れた瞬間、「今日もかっこよかった、もうやだ消えたい、あそこのシーンよかった、まだ明日もあるつらい」となる。実にめんどくさい。

ただ、上でも限定して書いたが、私がサラダボウル化するのは公演やイベントだけだ。

直に見ることが駄目なのか、液晶画面に何らかの浄化作用があるのかは不明だが、テレビや映画を見ているときは「素敵だったなあ、これからも応援しよう」で終わる。

 

「推しを見たあとにめちゃくちゃへこんでしまう」人には、様々なタイプがいると思う。

ガチ恋の人が多いのかな?統計的なことはよくわからないが、私は「応援している俳優さんみたいな人間になりたくて仕方ない(が、なれずに消滅する)妖怪」タイプだ。

終演後の私の頭の中は、「応援している俳優さんはとても輝いていたのに、私は闇でしかない。応援している俳優さんが一生懸命お稽古している時、私はゴミみたいな時間を過ごしていた。こんなデブスがあんなに輝く俳優さんを応援してもいいのだろうか」でいっぱいだ。実に、実にめんどくさい。

応援している俳優さんと自分を比較してんじゃねえよ、とは思う。他人と比較して絶望するのは私の悪い癖だ。この癖がなくなったら、私は今の10倍楽しいオタクライフを過ごせるだろう。

少し話が逸れたが、私は自分の人間的欠陥を思い知るゆえに、人間として憧れている(応援している)俳優さんを見たあとにひどく落ちこむのだ。

 

一時期、応援している俳優さんの舞台を観に行けなくなったことがあった。

チケットは持っていたのに、どうしても足を運ぶ気にならなかった。

今思うと、当時はめちゃくちゃな精神状態だったので、観に行ったら落ちこみすぎて大変なことになっていただろう。

他人を応援することは、自分を支える力のある者に許された行為なのだと痛感した。

 

こじらせにこじらせた私なので、応援している俳優さんの出ていない作品を観ると、肩が凝らないことに感動する。

名前は控えるが、昨年、応援している俳優さんに次いでお金を出した俳優さんがいる。今年もその予定で、彼の公演を観に行くと、応援している俳優さんを応援しはじめたころの気持ちを思い出して楽しい。

(二階席か最後列席しか当たったことがないが、それでも本当に楽しい。本音を言うと、そろそろオペラグラスを使わなくてもいい席でも見てみたい)

 

上手い締めの文章が思い浮かばないので、この記事を書いている時に、唇の同じところを二回噛んだことを書いておく。

ガムをうまく噛むことすらできない私は、応援している俳優さんに希望と絶望を抱きながら、これからも劇場に通うだろう。

 

おわり

(知らんがな大賞の話だが、『オペラグラス越しのシリウス』というこのブログのタイトルは、私にはあまりにもまぶしい俳優さんを一等星のシリウスに見立てて付けた。「シリウス」の由来通り、いつか俳優さんの輝きに「焼け焦が」されてしまう気がするが、そんなこと知らんがな)