オペラグラス越しのシリウス

焼き焦がされたいオタク

書いていて「ふつう」のゲシュタルト崩壊が起きそうになった話

最近、応援している俳優さんの舞台も映像もないから心穏やかだ。

趣味に気持ちを荒ませるなんて本末転倒もいいところだが、「はやく観に行きたいな」と雑念なく胸を弾ませる時期は久しぶりなのでとても楽しい。

 

冒頭で心穏やかと書いたが、それは応援している俳優さん関係の話だ。

それ以外、つまり私自身の生活には常に死にたさや劣等感がつきまとっている。

その理由は、私が「ふつう」ではないからだ。

私は、ふつうに進学して、ふつうに就職して、ふつうに結婚するの「ふつう」を一つも達成していない。私の夢は「ふつうに暮らすこと」なのに、「それってふつうじゃないよ」と言われ続けてきた。

最近また「みんなはこうなのに…」と言われることが増え、余計にナーバスになっている。

 

「ふつう」なんて、多数派が生みだした幻想にすぎないことはよくわかっている。

応援している俳優さんだって、言ってしまえば「ふつう」の対象からは外れている。

だが、応援している俳優さんは立派でも私は惨めなのだ。

親しい人に「周りは気にしないでいいのよ」や「あなたのしたいようにすればいいのよ」と言われようとも、私が私を駄目だと評価しているのだから私は駄目なのだ。(そもそも私のしたいことは「ふつうに暮らすこと」であり、それができないから悩んでいる)

 

某ドラマの影響だと思うが、この頃「呪いの言葉を吐かないで」という主張を目にするようになった。

性別でも年齢でも恋愛でも就職でも、「呪いの言葉」はあらゆる場面にあらわれる。

おそらく言葉を発した人からすれば、それは「呪い」ではなく「ふつう」のことなのだろう。だが、その「ふつう」から外れている人にとっては「呪い」になる。

「呪いの言葉を吐かないで」は「あなたの価値観(ふつう)を押しつけないで」であり「私は私の価値観で生きていく」でもある。

 

そう考えると、私は「呪いの言葉」を吐かれていることになるわけだが、私は「呪いの言葉を吐かれている」という感覚がよくわからない。

いくら「ふつうじゃない」と言われようとも、「そうかもね」と鼻でもほじればここまで気に病まなかったはずだ。我慢の限界もあるだろうが、他人に吐かれた言葉なんて所詮他人の人生から生み出された他人のものだ。

では、私に「ふつう」ではない劣等感を与えているのは誰か。私自身だ。

 

上のドラマでは、「私たちの周りにはね、たくさんの呪いがあるの。(…)自分に呪いをかけないで。(…)」と言っていた。

自分に呪いをかけるのは、他人ではなくて自分自身なのだ。他人に「呪いの言葉をかけないで」とお願いしても、誰かの力で「呪いの言葉」から救われようとしても、結局自分に呪いを解く力がなければ一生呪いはつきまとう。

 

こんな私でも尊重してくれる人はいる。「ふつう」の普遍性を疑っている自分もいる。

だが、私の根本的な考えが「みんなの言う『ふつう』でなければいけない」である以上、「ふつう」になれない私には存在価値が見いだせない。

たとえ社会が私を肯定しても、私が自分を肯定しない限り、私はずっと惨めで駄目な人間のままなのだ。

 

私の応援している俳優さんは、自分でその道を選び、かつ自信を持って前進しているから立派だ。(立派なんておこがましいこと言える立場にはないが、うまく表現できないので「立派だ」と書いた)

私は、自分で自分の道を選ぶことも突き進むこともできず、周りの価値観に依存しているから駄目だ。

「ふつう」になるのが先か、「ふつう」ではない自分を認められるようになるのが先か。まだまだ地獄はつづきそうだ。

 

おわり