オペラグラス越しのシリウス

焼き焦がされたいオタク

彼らは付き合ってない

同じ作品に出ただけで付き合わせる人、写真の並びが隣だっただけでカップルって騒ぐ人、みんなみんなどこかへ行ってほしい。

俳優さんは商品だって言われるけど、「私腐女子だから~」って自分をカテゴリーにはめて許された気になってる気持ち悪い女の消費財ではない。

作品内で付き合っている設定があるキャラクター同士なら問題ない。それはあくまでもキャラクターだから。

だけど、自称腐女子がブヒブヒ言ってるカップルは、現実の人に対する妄想の産物に過ぎない。

わざわざ無断転載した写真に「〇〇×△△」ってコメントつけて垂れ流してる人って、アイドルに精液をかけたように見える加工した写真を公開してるおじさんと同じだと思うけど、腐女子を自称すれば許されるの?

妄想するだけなら勝手にどうぞって感じ。開き直って他人に口外する理由がわからない。俳優さん本人の目に入らなければいいと考えてるのなら、ずいぶん狭い世界に生きているんだなと思う。自称腐女子の妄想世界に、そうじゃないファンはいないのだろうか。

鍵アカウントで妄想してるからセーフ?そういう人の会話って、公開アカウントでも劇場でもニュアンスで腐女子なのが伝わってきて過剰な防衛反応おこるから、私としてはアウト。小声で話そうがぼかして話そうが、聞こえるものは聞こえるしわかるものはわかる。

そういうのを逆手に取ってアピールする俳優さんのことは「あーあ」と思う。需要がある限り仕方ないのかもしれない。だけど、一度目を付けた自称腐女子はいつまでたっても「〇〇×△△」を持ちだしてくるから、俳優さんは未来で後悔しないで欲しい。あとから応援し始めたファンも、そういう妄想に負けて身を引かないで欲しい。

私にとって腐女子は迷惑なオタク。こじらせた私も、誰かにとっては迷惑なオタク。

総じてオタクはめんどくさい。

 

おわり

沼を干上がらせたいオタク

 私は、「〇〇沼(に落ちた)」という表現が好きではない。

「沼」とは、「ある作品や人物(実在・非実在問わず)にひどく熱中し、深みにはまっていく状態」を指すオタク用語だ。

 

私が「沼」を好まない理由は、「なんかいやだから」だ。

もし私が、「なんかいやだからしののめのこと好きじゃない」と言われたら、怒りよりも先に困惑がくるだろう。明確な理由があるなら改善できるが、曖昧な理由ならどうすることもできない。

というわけで、「沼」を困らせないためにも、「なんか」がなにか分析してみようと思う。

 

 結論から書くと、私が「〇〇沼」を好まないのは、「私にとって適切な(比喩)表現ではないから」だ。

「人や物にはまる」と「沼にはまる」をかけてるのだと思うが、正直うまくない。

適切ではないと思われる点は、2つに分けられる。

 

①対象への好意を感じにくい点

私が「沼」と聞いて想像するのは、土で茶色くにごった水面である。

辞典を見ると、

(名)泥が深く、藻などが繁茂している水域。

北原保雄編、『明鏡国語辞典』、大修館書店

ぬま。湖に似ているが水深が比較的浅く、泥が深く、水中植物などのはえる所。〔後略〕

(蒲田正・米山寅太郎、『新漢語林』、大修館書店

 とある。泥を含まない定義もあるようだが、にごった水域というイメージは間違いではないといえる。

 

若手俳優のファンが「沼」を使うとき、「沼」=「(そのファンが熱中している)俳優や作品」が成り立っている。

辞典の意味を当てはめると、「沼」という表現は、応援している俳優さんや好きな作品をにごったものとして扱っていることになる。

ありえない。あの人たちが沼なら私はゴミ溜めだ。それも下の方の、もはや物体ではなくなったゴミだ。

 

「沼」と言っているファンに、そうした意図はないだろう。

おそらく、「みんなが使っているから」といった理由で言っているのだと思う。

だが、私はどうしても「にごった水」のイメージが払拭できない。みんなが使っていようが沼は沼、私(のイメージ)>みんな(の使用状況)なのだ。

大好きで輝いている人や作品のはずなのに、「沼」と言うことで、意図せず美しくないイメージを付与してしまう。それが、「なんかいやだなあ」につながっていたのだろう。

 

 ②使用者の声が大きい点

 私は、「○○沼」の意味する沼とは、いわゆる底なし沼であると理解している。

泥水に足を取られもがくほど沈む様子が、対象をどんどん好きになってしまう様子の比喩である、と。 応援している人や作品を泥に例えようとはどうしても思えないが、「彼の魅力が私を離さないの♡まるで底なし沼に沈んでくみたい♡」という意味ならば、そういう例えもありかもしれない。

 

 だが、やはりいまいち納得できない。

 沼に沈んでいるのなら口は開けない、もし開けたとしてもその声は外に届かないはずだ。

しかし「沼」を使う人は、私の知る限り声が大きい。 「○○沼最高」「わかる○○沼やばい」「○○沼の住人です」「○○沼においでよ」エトセトラエトセトラ…

 

 底なし沼をなめるな。

沼に沈んだら、悠長に「沼最高〜沼やばい〜」なんて言えないはずだ。「axsjxjdx'gjmtpw!???!?????!!!」だ。もしくは「pjtjmw…………」だ。 

 そして沼には住めない。それは住人ではなく死体だ。死体はしゃべらない。 

 

 顔だけ表面に出ているから余裕があって話せる。

そういう可能性もあるが、ズブズブ沈まないのならば

 「沼」で例える必要はない。

そのような矛盾を感じてしまうところが、「なんかいやだなあ」につながっており、適切な比喩でないという判断に至ったのだろう。

 

以上が、私が「〇〇沼」という表現が好きではない理由だ。

2つ目はいささか感情的だが、論文ではないのでよしとする。

 

私が一番思っているのは、「わざわざ沼なんて言わなくても、○○さん大好き、○○って作品は本当にすごいで十分じゃないか」ということだ。

 

おそらく「沼」という言葉を使うことは、ファンという集団のトーテミズムにかかわってくるのだと思う。

「沼」にはまることではなく、「沼」を使うことに意味がある、というような何かがあるはずだ。

ぼんやりとした仮説なので、まったくの的外れかもしれない。

 覚えたての難しい言葉を使ってみたいだけの痛い私こそ、沼にとびこんだ方がいいのかもしれない。

ズブズブ、沼最高!

おわり

(もし、オタク用語を使う集団にかんする文献があったら教えてください)

n回目のオタクやめたい期

オタクやめたい。

こじらせた重いオタクだから、軽くふりまわされたり、嘲笑われたりするようなことをされると、耐えるためにますます重くなっていく。

めんどくさい。しんどい。やめたい。

どうせ今回もやめられないだろうけど。

 

おわり