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オペラグラス越しのシリウス

焼き焦がされたいオタク

彼女ではないオタク

オタク

はてなブログから、「久しぶりだけど元気?最近は何してるの?私の話に応えて?それらはすべて、きっとあなたのためになると思うから」という彼女かよメール改めリマインドメールが届いていたので、スマホの液晶画面をタッチしようと思う。

 

ここしばらく、応援している俳優さんを見ていない。

俳優さんが仕事をしていないわけではない。舞台に立ったりテレビに出たりしていないだけだ。

私は、俳優さんが4月からはじまる公演の稽古をしたり取材を受けたりしていることを知っているし、その稽古を映した動画が公式ツイッターに上がっていることも知っている。

つまり、「ここしばらく、応援している俳優さん(の稽古の様子や取材記事)を(あえて)見ていない」のだ。

 

「怠惰なオタクに死を!」と叫ぶのは少し待って欲しい。

オタクすることがアイデンティティーであるオタクがオタクしていないのには理由がある。

 

理由一、インターネットをすることに疲れた。

なぁにがワールドワイドウェブじゃ。こちとら半径5mの世界を大切にするのに必死なんじゃ。 と悪態をつきたいわけではないが、今はインスタントな情報を欲していない。

最近は、メールを読む時と電車の乗り換えを調べる時くらいしか、インターネットに接続していない気がする。

なので、『今日の〇〇さん便』のように、応援している俳優さんの稽古の様子を簡潔にまとめたメールが届いたら、それはチェックすると思う。

 

理由ニ、生活の中に応援している俳優さんがいなくても平気になった。

以前も書いたが、昨年、私は応援している俳優さんの舞台に行かなかった。(病み過ぎて)それまで「〇〇さんの舞台を観なきゃいけないから死ねない」と言っていたのに、だ。

行かない選択をしても、観れなかったショックで死ぬことはなかったし、罪悪感を抱くこともなかった。そして、「私は応援している俳優さんがいなくても生きていけるんだ」と気がついた。

あまりにもあっさりとしていて寂しかったが、今はそういうものだと受け入れている。

 

悲しいことに、応援している俳優さん(の舞台)を見ると病む性質は変わっていない。

もしかしたら上記二つの理由ではなく、本当は「見たら病むから稽古の様子も取材記事も見ていない」のかもしれない。 「しれない」ではなく本当にそんな気がしてきたが、これ以上は考えることを放棄しよう。

 

稽古は工事のようなものだと思う。

キャストとスタッフが工事関係者で、ファンやオタクは近隣住民。

近隣住民に与えられる情報は、工事に関わる会社と人、建物のイメージ、完成時期。 あとは、工事現場からカンカンコンコン響く音を、フェンスの外で聞くことしかできない。

私はそれでいい。 工事の過程に興味がないと言ったら嘘になるが、すべて出来てから一気に見たい気持ちの方が大きい。

そして、完成した建物に足を踏み入れた時、「何にもなかった土地にこれほど素晴らしい物が建つなんて」と感涙にむせぶオタクでありたい。

他のファンの方がどうかは知らない。稽古の動画が頻繁に上がるということは、パズルのピースを拾い集め、観劇時に完成させたいという方が多いのだろう。

みんな違ってみんなオタクだ。 (上手いこと言った時思っている。)

久しぶりのブログは、ここまで書くのに三日かかった。

今回伝えたかったことは、

私は、彼女かよ改めはてなブログからのリマインダーメールではないので、「私のいない所で何をやっているのか、あなたの口から聞きたい。私はあなたの全てが知りたいの。だから話して。常に思うこと、それはすなわち愛でしょう」なんて言わないよ、ということだ。

おわり

様々な感情を抱くオタク

オタク

先日、しばしば拝見しているブログに「推しを見たあとにめちゃくちゃへこんでしまう」という記事が上がっていた。

 

わかる(海を背景に微笑む渡哲也さん)

 

私も、応援している俳優さんをみたあとは気持ちが沈む。正確には、興奮と鬱屈と感動と絶望のサラダボウルと化す。

私の場合、理由は明白。

「応援している俳優さんの輝きにあてられるから」だ。

 

応援している俳優さんの輝きを塩にたとえよう。

公演やイベントを楽しみにしていた私にとって、応援している俳優さんの輝きはお清めの塩だ。

神聖かつ「また観に行こう」と引き寄せられるものであり、心の拠りどころでもある。

一方、劣等感と死にたさでジメジメしているナメクジみたいな私にとって、応援している俳優さんの輝きは凶器の塩だ。

私の中の少ない希望を吸収する形で、ナメクジ(私)を干からびさせていく。

(上と揃えて塩を主語にするためとはいえ、私が勝手に干からびているくせに、「させていく」なんて書いてごめんなさい)

 

椅子に座っている間、私は観客の私でしかない。

しかし「本日は・・・」のアナウンスが流れた瞬間、「今日もかっこよかった、もうやだ消えたい、あそこのシーンよかった、まだ明日もあるつらい」となる。実にめんどくさい。

ただ、上でも限定して書いたが、私がサラダボウル化するのは公演やイベントだけだ。

直に見ることが駄目なのか、液晶画面に何らかの浄化作用があるのかは不明だが、テレビや映画を見ているときは「素敵だったなあ、これからも応援しよう」で終わる。

 

「推しを見たあとにめちゃくちゃへこんでしまう」人には、様々なタイプがいると思う。

ガチ恋の人が多いのかな?統計的なことはよくわからないが、私は「応援している俳優さんみたいな人間になりたくて仕方ない(が、なれずに消滅する)妖怪」タイプだ。

終演後の私の頭の中は、「応援している俳優さんはとても輝いていたのに、私は闇でしかない。応援している俳優さんが一生懸命お稽古している時、私はゴミみたいな時間を過ごしていた。こんなデブスがあんなに輝く俳優さんを応援してもいいのだろうか」でいっぱいだ。実に、実にめんどくさい。

応援している俳優さんと自分を比較してんじゃねえよ、とは思う。他人と比較して絶望するのは私の悪い癖だ。この癖がなくなったら、私は今の10倍楽しいオタクライフを過ごせるだろう。

少し話が逸れたが、私は自分の人間的欠陥を思い知るゆえに、人間として憧れている(応援している)俳優さんを見たあとにひどく落ちこむのだ。

 

一時期、応援している俳優さんの舞台を観に行けなくなったことがあった。

チケットは持っていたのに、どうしても足を運ぶ気にならなかった。

今思うと、当時はめちゃくちゃな精神状態だったので、観に行ったら落ちこみすぎて大変なことになっていただろう。

他人を応援することは、自分を支える力のある者に許された行為なのだと痛感した。

 

こじらせにこじらせた私なので、応援している俳優さんの出ていない作品を観ると、肩が凝らないことに感動する。

名前は控えるが、昨年、応援している俳優さんに次いでお金を出した俳優さんがいる。今年もその予定で、彼の公演を観に行くと、応援している俳優さんを応援しはじめたころの気持ちを思い出して楽しい。

(二階席か最後列席しか当たったことがないが、それでも本当に楽しい。本音を言うと、そろそろオペラグラスを使わなくてもいい席でも見てみたい)

 

上手い締めの文章が思い浮かばないので、この記事を書いている時に、唇の同じところを二回噛んだことを書いておく。

ガムをうまく噛むことすらできない私は、応援している俳優さんに希望と絶望を抱きながら、これからも劇場に通うだろう。

 

おわり

(知らんがな大賞の話だが、『オペラグラス越しのシリウス』というこのブログのタイトルは、私にはあまりにもまぶしい俳優さんを一等星のシリウスに見立てて付けた。「シリウス」の由来通り、いつか俳優さんの輝きに「焼け焦が」されてしまう気がするが、そんなこと知らんがな)

待てのできるオタク

オタク

応援している俳優さんが!久しぶりに!自分の写真を載せたブログを更新した!

笑顔が!かわいい!大好き!幸せ!

 

おわり!